「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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「教員」と「親」と「社会」の中の「子供」・・みな「愛」がない「利己」しかない

念のため、私は「道徳」や「正義」を説く気はさらさらない。

あったりまえに、私は「聖人君子」ではないからである。

つまり、

「愛」などという「概念」は、「心」同様に、

きわめて触りのよい「実体なき抽象」であって、

その「証明なき」「抽象」を演繹させることは「宗教」以外にないからである。

だとすれば、「愛や心」は、ふたたび抽象の「神」のみぞ知る。

つまり、「人間」の現実にあっては、

帰納的には「利己」と「嘘」が多数をしめているのだから、

問題は、

「子供」に対して、いかに「利己」の必然性と必要性を教えるか、


ではないでせうか?

同時に、強い「利己」と弱い「利己」の混交「社会」のなかで、

「一寸の虫にも五分の魂」の発露ときっかけを、

「教員」と「親」は育てるのが「義務・責任」ではないでせうか?

その「義務・責任」を抜きにして、「教員」と「親」の、いわば「特殊権利」はありえない。


学校も家庭も、「特殊社会」として隔離され、「特権」的であるために、

「子供」の「利己」は「不平等」にしか育たない。

自己の「利己生存」に照らして、「子供」の「利己生存」を育むこと、

「汚くセコい(かった)自分」への認識がなければ、

「子供」とは付き合えるわけがない・・

あるいはこれが、「愛」の一形態と言えるでせう。


(あとは具体的事例で続けませうか、考慮中)