「教員」と「親」と「社会」の中の「子供」・・みな「愛」がない「利己」しかない
念のため、私は「道徳」や「正義」を説く気はさらさらない。
あったりまえに、私は「聖人君子」ではないからである。
つまり、
「愛」などという「概念」は、「心」同様に、
きわめて触りのよい「実体なき抽象」であって、
その「証明なき」「抽象」を演繹させることは「宗教」以外にないからである。
だとすれば、「愛や心」は、ふたたび抽象の「神」のみぞ知る。
つまり、「人間」の現実にあっては、
帰納的には「利己」と「嘘」が多数をしめているのだから、
問題は、
ではないでせうか?
同時に、強い「利己」と弱い「利己」の混交「社会」のなかで、
「一寸の虫にも五分の魂」の発露ときっかけを、
「教員」と「親」は育てるのが「義務・責任」ではないでせうか?
学校も家庭も、「特殊社会」として隔離され、「特権」的であるために、
「子供」の「利己」は「不平等」にしか育たない。
自己の「利己生存」に照らして、「子供」の「利己生存」を育むこと、
「汚くセコい(かった)自分」への認識がなければ、
「子供」とは付き合えるわけがない・・