「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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「家族」というトラウマの普遍性を大切にしませう

プラトンは、「饗宴」のなかで、

具体的に「子」を産む「理由」と、

抽象的に「子」を産む「理由」を述べている。。

私は青年期からすでに「具体的子」を産むつもりはまるでなかった。。

それは、「具体的家庭」のデタラメさ経験によるトラウマによるかもしれない。。

または、

自らの客観化による、

「具体的子」のとんでもハップン性格出現可能性予測によるかもしれない。

または、

不適材不適所の蔓延する「モダン」への否定であったかもしれない。。

と、いうことで・・

合理によらない非合理集団である「家族姻戚」基本主義は、


前近代そのものでありつつ、

小国寡民主義でないかぎり、

すべての戦争・殺戮の温床でしかあるまい。。


むろん、

歴史は、家族姻戚間の戦争殺戮を「当然」のごとく繰り返している、


わけだから・・

この近代、

個人を基本として「社会」が成り立つはずの「理念」を、

全くの不合理不条理で構成するしかない「家族姻戚」によるトラウマを、

脱出しようとする者こそが、称えられるべきでせう。。

すなわち、

脱出できない連中の「偽善」をこそ問題にすべきでせう。。


その条理から考えると・・

文字通り、あるいは「偽善」によって「解体」されてしまったお嬢さんは、

ひとつの「正義」の末路ではあったでせう。。

二浪もしたら、その段階で、才能ねーんだよおめーよ!!


と、

どうして親も学校も予備校も言わなかったのかぃ!!??

もしも「解体」するなら、

妹ではなく、まず自分であるべきだったはずだが・・ね。。