「家族」というトラウマの普遍性を大切にしませう
プラトンは、「饗宴」のなかで、
具体的に「子」を産む「理由」と、
抽象的に「子」を産む「理由」を述べている。。
私は青年期からすでに「具体的子」を産むつもりはまるでなかった。。
それは、「具体的家庭」のデタラメさ経験によるトラウマによるかもしれない。。
または、
自らの客観化による、
「具体的子」のとんでもハップン性格出現可能性予測によるかもしれない。
または、
不適材不適所の蔓延する「モダン」への否定であったかもしれない。。
と、いうことで・・
前近代そのものでありつつ、
小国寡民主義でないかぎり、
むろん、
わけだから・・
この近代、
個人を基本として「社会」が成り立つはずの「理念」を、
全くの不合理不条理で構成するしかない「家族姻戚」によるトラウマを、
脱出しようとする者こそが、称えられるべきでせう。。
すなわち、
その条理から考えると・・
文字通り、あるいは「偽善」によって「解体」されてしまったお嬢さんは、
ひとつの「正義」の末路ではあったでせう。。
と、
どうして親も学校も予備校も言わなかったのかぃ!!??
もしも「解体」するなら、
妹ではなく、まず自分であるべきだったはずだが・・ね。。