「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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♪「星の界(よ)」

「星の界(よ)」(作詞:杉谷代水 作曲:Charles C. Convers)




■歌詞
1.月なきみ空に きらめく光 嗚呼その星影 希望のすがた
  人智は果てなし 無窮の遠(おち)に いざその星影 きわめも行かん
2.雲なきみ空に 横とう光 ああ洋々たる 銀河の流れ
  仰ぎて眺むる 万里のあなた いざ棹させよや 窮理の船に


<オルゴール版コメント>
承知のように、この元歌は、
What a Friend we Have in Jesus という賛美歌である。
和訳としては「いつくしみ深き友なるイエス」ということになっている。
で、日本では明治43年来「中学唱歌」として上記の歌詞とともに、
第二次大戦後も中学の音楽で習う曲であった。

むろん、わたしはクリスチャンではないし、この歌がもと賛美歌であったことも、
後日知ったわけだが、ところで、いわゆる賛美歌の類は、
高校の時に、わが部活の部屋のすぐ近くにコーラス部があったので、
ときおり聞こえてくる「もみの木」とか題名不明の何かを、
わりと心地よいBGMと感じていたものだから、
たしかに人間の生理に適う波長にはちがいない。

クリスマス・ソングはもちろん、Amazing Graceも、
わが好みの旋律であるわけで、この「星の界」の歌詞は一見は賛美歌様には見えないが、
これ、やはりこの歌詞も「賛美歌」でしょう。
ただ、元歌の元歌詞が不明なので、和訳が原詩をきちんとふまえているのかも不明、
とにかく「いつくしみ深き友なるイエス」以下の歌詞については、
わたしはあきまへん。ご勘弁をという内容であり、
この「星の界」で十分。

余談ながら、わたしの見るかぎりの「イエス」は、この「星の界」のほうに近い。
この杉谷さんがクリスチャンであったかどうかも不明だが、
What a Friend 何たる友よ we Have in Jesus キリストにあって存在する、
ということであるのだから、ともあれキリストをまるで「優しい友達の輪」みたいな日本の訳は、「……」。
原詩がその類だったとしても、この曲はまさに「星の界」のほうにふさわしい。より普遍的でしょう。

て、ことで、この曲もジャズ+オケ風にトライしてみたのだが、
なぜかMIDIをBGMに組み込むとテンポの変化が出なくなってしまうので、
やはりオルゴール音がよろしかろうと、とまれここは一端「優美に」…と落着。


<スイング版コメント>
モーツァルトが、スイングできないとして、
原曲がバリバリの賛美歌であるこの「星の界」は、可能である。
先に書いたように、はじめにMIDIを作成したおり、
オルゴール→スイング→オケ風とバリエーションをつけたのだが、
この曲に限ってMIDIそれ自体はきちんとテンポも変わって鳴るにもかかわらず、
ページへ組み込むとテンポが変わらない現象になるために、
あきらめて楽譜指示どおりの「優美な」オルゴールだけにしていた。

しかし、やはりそもそも「賛美歌」の趣旨とは、「ここにあり」、
あらねばならぬ、ので、ここに分離して登場させておくことにした。


<ピアノ+オケ風版コメント>
Amazing Graceが、誰が曲をつけ、歌い始めたのか不明の「伝承曲」であるのに比して、
この曲は、あたりまえのことながら、教会のミサ用に作られたものである。
本来はオルガンでしょうが、このようにピアノ+オケ風にアレンジしてみても、
やはりカルチュアライズされた趣きが残る。
先のように、スイングにもできたとしても、同じくどこかで「整って」いるのであった。

考えてみれば、「学校」というものが用意されている「文明」社会における「それ」と、
途上過程の「自然」的な状態の中での「それ」とは、
明らかに、心身へのダイナミズムが異なっているにちがいない。

遠い過去の「記憶」はさておいて、
たとえば「理性」ではなく、
きわめて原始的な、実際的な「感覚」からの体験が、
本来的に呼び覚まされる「孤立」を意識する時には、
例の「群集の中の孤独」とは、比較にならない水準の振幅を帯びる。

それが、「近代」が常に置き忘れ、ないしは「理の網」からこぼしてゆく、
外「人間史」でもあり、同時に、「理性の中の非理性」でもある。

ということで、「賛美歌」の波長は、快く心身を囲みつつも、
鼻歌まじりに、「もうひとつの新世界」へ突き抜ける入り口として、
さて、位置付けうるのか、単なる「弁別の包囲網」に成り下がるのか、
ともあれ、私にあっては前者でありつつも、後者の現実は根が深い。