「誤審」というものの近代的位置づけのあるべき姿とは--傍観者の正義~~40
死刑廃止論の重要な根拠のひとつに、「誤審可能性」がある。
裁判官も検事も「ニンゲン=不完全な存在」を前提とする。
して、死は不可逆性で再生不能だからである。
実は、ニンゲンが不完全であるならば、
裁きなんどという行為は「普遍正義」でもなんでもない、
個別・特殊の「正義並立」=多数決にすぎない。
ただ、民主主義ってーもんがそんなもんだってーなら、
「誤審」か否かは「多数決」であるだけのこと、だが、
基本的に「審判・判定」は「証拠」によるべきが近代の合理であるから、
したがって「新証拠」の出現による「再審」が保障されている。
が、しかし、
「証拠認定」の客観性において、
ここでも「ニンゲンの不完全」が影響するわけだから、
「審判」をするニンゲンは、あくまで相対であって絶対ではありえない。
したがって「審判の決定は絶対」とする「スポーツルール」は非近代的である。
が、
なぜか前近代そのものの大相撲の行司については、
絶対どころか、飾り物にすぎず、
この点だけは、なぜか大相撲は近代的なのである。。
さて・・
「裁き」や「審判」や「決定」や「命令」や「強制」やらの、
倫理的根拠とは、
股イズレつづく・・