「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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殺生論1

殺人が原則なぜいけないか、
と言えば、
「人間中心主義」だからである。

では、戦争による殺人はどうなるのか、
と言えば、
「国家中心主義」によって、称えられもするし、
処罰されもする。

すなわち、
「個」と「国家」の「生命保存」の原則によって判断される。

個々の殺人については、
正当防衛と緊急避難の概念によって「やむを得ず」とも判断され、
戦争の殺人については、
少なくとも「近代国家」にあっては、
上記「個」のケースの延長上にある。

すなわち、
捕虜はじめ、無抵抗者への虐殺は「無益な殺生」である。

して、
「近代人間・国家中心主義」にあっては、
「宗教」は付随事項にすぎなくなるから、
「非合理」による活動は「私的」範疇であり、
「公的」活動はすべて「悪」となるのである。

そこで、
では「人間中心主義」は「合理」的か?
と言えば、
自然循環系の観点からは、「非合理」となるから、
ついで、
「人間」の概念それ自体が、
ポストモダンを待つまでもなく、
合理と非合理のワンセットであるから、
こうなると、
人為なし、無為自然小国寡民の「老荘」でいいんじゃないの?

すなわち、
問題は、この、どう考えても「奇怪」としか思えないところの、
「地球の存在」をもって「全て」と考えないところから、
あらゆる可能性への視野をこそ。
そこから、
「なぜ殺人はいけないのか?」
と問うその背景や動機と、
「君が無意味に無差別的に殺されてもいいなら、いいことになる」
という、ひとまずの答えと、
もうひとつ、
人間以外の動物が、どうであって、
人間と動物がどうあるのか、
つまり、
「天然自然の合理と非合理」を、
あくまで「事態」として考える「現象学」でもって、
予断と偏見をどう無くすか、、、

親を兄を殺してしまった15歳の哀しみは、
実は、私の15歳のココロでもあった。
「殺意」という次元では、同情であった、、、

ところでこの件で、
若貴問題にはえらそーに発言したマスコミが沈黙ってのは、
すでに「お里が知れる」。

とりあえずBGMは「兄弟仁義」で。
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