「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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あちしもミーハー、してミーハーは楽しいが、今や公務まで

どー見ても、現代政治経済やってる連中はミーハーそのもの。。
定見っちゅーもんがなーんもなし
ムダ金喰らってなーーんもべんきょーなんどしてへん。。
ところの、
単なる目立ちたがり屋の集合にすぎん。。
 
むろん、
相対多数がミーハーレベルで「公」を判断するのだカラ、
ミンシュシュギってーのはそれが正義ではアル。
 
だカラ、
その、
ミンシュシュギ的ミーハー正義を、
同一土俵で覆すことは、ほぼ不可能でアル
 
ではどーしたラ??
ってーコトはここではおいといて、
・・ミーハーはその必然として「共食い」をスルので、
その「自然法則」に任せて、桶屋が儲かる・・
じゃーねー、ほぉっておけばヨイことになるのだが、
 
ひとつふたーつ、みいっつ・・今何時? ・・ななーつやつ・・
じゃーねー、
日常生活のひとつひとつにミーハー政治の悪行が絡んでくるので、
いや、政治のみならずの、学術は言うに及ばず、
たとへば「この世が住みにくいと悟ったとき」にできる、はずの、
「芸術・文学・宗教・・」までもがミーハー度99.9。。
 
 
と、なるってーと、
・・商・経済だけは「共食い」経過で安売り合戦をスルので、
ひょとしタラ、
じゆーミンシュを謳った商経済の取り柄かとも思えるが、
なんの! それはシタタかっちゅーもんでして、
歴史は「買占め-独占-高騰」こそが本質でアルことを教えている。。
 
ので、
MeもHerもあくまで算盤づくに違いはない。。
 
 
で、
この「算盤づくミーハー現象」の「相対幸福」が、
絶対的に「不幸」でしかないのは、
あくまで相対基準しか持ち合わせないので、
もともと「幸福」などという概念が不明のまま、
ミーハー枠にすがるしかないという絶対的欠落の事情であろー。
 
 
てなこって、
実はミーハーってのは、
ルーデンスのイキとして重要不可欠要素でアルのだが、
時と場所と状況と立場を弁えなければ
それが、loopy
 
 
・・てより、
loopyを落とせるのは別種のloopyでしかなく、
したがって、
まともな人間が「政治経済」離れをする
これが「もうひとつの正義」でアル。。
 
ただ、
付くか離れるか、という二択もまた、
「正義」の一面にすぎず、
同時に、
「離」という文字は「つく=はなれる」であり、
単純局面では、
「離れる」ってーコトは別のものにつく、
「付く」ってーコトはあるものから離れる・・
とゆー、
「離合集散」現象としてある。
 
これを、
本質的な局面として見れば、
信念やそれに伴う「自己変革」の作業となるのだが、
 
この時、
明確な「離散」概念がない限り、
「集合」の概念はない。
はずだカラ、
問題はつねづね「価値観」そのものとゆーことになる。。
 
して、
その「価値観」の形成は、
究極的には「自他の生命選択」の位置とともにある、
くだいて言えば、
自と他の命の二択を迫られたときに、
自他のどちらを選ぶかに影響するのでアル、
カラ、

少なくとも、
ミーハー水準の出来事ではありえない。。
 
もともとこの「みぃーはぁー」ってー言葉は、
二・三の説があるのだが、
共通するのは「時代の流行依存性」ってーことで、
相対多数のファッションの域を意味している。
 
それが、
洒落と粋の水準にまで深化・純化すれば、
むろんミーハーではなくなるのだが、
そーなると、少なくとも「相対多数」から離れることになり、
だからといって「相対少数」に付くというわけでもない。
 
 
・・この「特殊」が、
特殊の位置を保ちつつ「普遍」となるには、
さて、・・・???
 
・・・この形態が、あるとすれば「民主主義」のあるべき姿で、
あるべきとすれば「美」ないし「別品」の「関与」による、
「天然自然支配」であるはずの姿である、という、
「二律背反」の理屈が成立するコトニナル、。。
 
 
てなことをつらつらつばきつらつらと・・巡らしていると、
筋肉痛もだいぶよくなったべし。。