「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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民族・国家単位の発想が、、-まぁまぁうんざり野暮後進曲1

近代「市民国家」の単位は、言うまでもなく「個人」である。
と、なれば、「国家」は「個人」の集合として流動的な存在である。
したがって、この流動的「国家」形態のなかで、
必然的に個と個の「争い」が発生する。

個がグループを形成し、それが「維持・発展」のために組織化され、
そこでも「争い」が発生し、、、というわけだから、
問題は、この「争い」の内容と方法にすぎないことになる。

ヴァイオレンス禁止を基本として、
近代国家にあっては「争い」の仕方にルールを設けている。
が、一方で、「死刑」を始めとして、
「ルール違反者」に対しては「強制という暴力」の、
いわば「報復」を、国家の名において実施する。

乱暴に言えば、
教育刑」という発想はかなりの「無理」があり、
概ね、「応報刑」の発想の方に「有理」がある。
ただし、
誤審の可能性による回復不可能性をどの程度考慮すべきか、
で、誤審による死刑執行があった場合、
検察官・裁判官に対して「応報刑」を課すべきか、、

一方で、
死刑を「残酷な刑罰」とみなすかどうか、
というより、たとえ「応報刑」主義だとしても、
残虐な事件への裁きとして残虐な応報の刑を禁止しているとすれば、
さて、
「死刑に値する」という時の、「死」は、
いったい応報なのか教育なのか、、、、???

すなわち、
その前に、
「私はなにゆえこのちーーーっちゃな国に生まれたんだろー?」
と、
小学校で世界地図とともに地理の授業を受けている時に、
私は考えていたので、
して、のち、歴史を学び始めて、
「私が徴兵されたら、日本軍の一員として戦うだろうか、いや戦うまい」
なぜなら、この日本の中でのわが「生活・生命に関わる敵」が多すぎる、
と経験上からも、そう確信した、そこから、
「経済」もまたすでに「戦争」であり、
「価値観」のすべては「戦争」予備軍であるから、
当然に、
単なる相対多数の「支配」による「国」のため、には応じられない。

民族や血縁という単位においても同様である。
人類史はすでに、
ユダヤ人であるから魂がユダヤ人であるのではない、
ユダヤ人でないから魂がユダヤ人でないのではない」
の域なのである。

またつづく(予定かも)。