「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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実戦問題試作・夏目漱石「三四郎」の1

まずは以下の試作問題を考えてみなはれ。現代文の旅として、はじめに「三四郎」のこの場面を取り上げた理由などは、また別場面の試作ほか作品試作とともに、おいおい述べてゆく。難易度は偏差65-70程度。問三以降の解き方や解説、模範解答例は後日(^_-)。


問題 次の文章を読んであとの問いに答えよ。

 元来あの女は何だろう。あんな女が世の中に居るものだろうか。女と云うものは、ああ落付いて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行ける所まで行ってみなかったから、見当がつかない。思い切ってもう少し行ってみると可(よ)かった。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云われた時には、喫驚(びっくり)した。二十三年の弱点が一度に露見した様な心持ちであった。親でもああ旨く云い中(あ)てるものではない。……
 三四郎は此処まで来て、更に悄然(しょげ)てしまった。何処の馬の骨だか分からない者に、頭の上がらない位打(どや)された様な気がした。ベーコンの二十三頁に対しても、甚だ申訳がない位に感じた。
 どうも、ああ狼狽しちゃ駄目だ。学問も大学生もあったものじゃない。甚だ人格に関係してくる。もう少しは仕様があったろう。けれども相手が何時でもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれより外に受け様がないとも思われる。すると無暗に女に近付いてはならないと云う訳になる。何だか意気地がない。非常に窮屈だ。(略)けれども……
 三四郎は急に気を易(か)えて、別の世界のことを思い出した。――これから東京に行く。大学に這(は)入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具わった学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間で喝采する。母が嬉しがる。と云うような 【[A]未来をだらしなく考えて】、大いに元気を回復してみると、別に二十三頁の中に顔を埋めている必要がなくなった。そこでひょいと頭を上げた。すると筋向うにいたさっきの男がまた三四郎の方を見ていた。今度は三四郎の方でもこの男を見返した。
 髭を濃く生やしている。面長の痩(やせ)ぎすの、どことなく神主じみた男であった。ただ鼻筋が真直に通っている所だけが西洋らしい。学校教育を受けつつある三四郎は、こんな男を見るときっと教師にしてしまう。男は白地の絣(かすり)の下に、鄭重に白い襦袢(じゅばん)を重ねて、紺足袋を穿いていた。この服装から《[1]オ》して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控えている自分から見ると、何だか下らなく感ぜられる。男はもう四十だろう。これより先もう発展しそうにもない。
 男はしきりに煙草をふかしている。長い烟(けむり)を鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。そうかと思うと無暗(むやみ)に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸びをすることがある。さも退屈そうである。隣に乗合せた人が、新聞の読み殻を傍に置くのに借りて看る気も出さない。三四郎は自(おのずか)ら妙になって、ベーコンの論文集を伏せてしまった。外の小説でも出して、本気に読んでみようとも考えたが、面倒だから已めにした。それよりは前にいる人の新聞を借りたくなった。生憎(あいにく)前の人はぐうぐう寝ている。三四郎は手を延ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御明きですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「明いてるでしょう。お読みなさい」と言った。新聞を手に取った三四郎の方は却って平気でなかった。
 開けてみると新聞には別に見る程の事も載っていない。一、二分で通読してしまった。《[2]リチギ》に畳んでもとの場所へ返しながら、一寸(ちょっと)《[3]エシャク》すると、向こうでも軽く《[4]アイサツ》をして、
「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。
 三四郎は、被っている古帽子の徽章の痕(あと)が、この男の目に映ったのを 【[B]嬉しく感じた。】
「ええ」と答えた。
「東京の?」と聞返した時、始めて、
「いえ、熊本です。……然し……」と言ったなり 【[C]黙ってしまった。大学生だと云いたかったけれども、言うほどの必要がないからと思って遠慮した。】 相手も「はあ、そう」と言ったなり煙草を吹かしている。何故熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いてくれない。熊本の生徒には興味がないらしい。この時三四郎の前に寝ていた男が「うん、なるほど」と云った。それでいて慥(たしか)に寝ている。独言でも何でもない。髭のある人は三四郎を見てにやにやと笑った。三四郎はそれを機会(しお)に、
「あなたは何処(どちら)へ」と聞いた。
「東京」とゆっくり云ったぎりである。何だか中学校の先生らしく無くなってきた。けれども三等へ乗っている位だから大したものでない事は明らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭のある男は腕組をしたまま、時々下駄の前歯で、拍子を取って、床を鳴らしたりしている。余程退屈に見える。然しこの男の退屈は話したがらない退屈である。
 汽車が豊橋へ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて目を擦りながら下りて行った。よくあんなに都合よく目を覚ますことが出来るものだと思った。ことによると寝ぼけて停車場(ステーション)を間違えたんだろうと気遣いながら、窓から眺めていると、決してそうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行った。三四郎は安心して席を向う側へ移した。これで髭のある人と隣り合せになった。髭のある人は入れ換って、窓から首を出して、水蜜桃を買っている。
 やがて二人の間に《[5]クダモノ》を置いて、
「食べませんか」と言った。
 三四郎は礼を云って、一つ食べた。髭のある人は好きと見えて、無暗に食べた。三四郎にもっと食べろと云う。三四郎はまた一つ食べた。二人が水蜜桃を食べているうちに大分親密になって色々な話を始めた。
 その男の説によると、桃はクダモノのうちでいちばん仙人めいている。なんだか馬鹿みた様な味がする。第一、核子(たね)の恰好(かっこう)が無器用だ。かつ穴だらけで大変面白く出来上がっていると云う。三四郎は始めて聞く説だが、随分詰らないことを云う人だと思った。
 次にその男がこんな事を云い出した。子規はクダモノがたいへん好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿(たるがき)を十六食ったことがある。それで何ともなかった。自分などは到底(とても)子規の真似は出来ない。――三四郎は笑って聞いていた。けれども子規の話だけには興味がある様な気がした。もう少し子規の事でも話そうかと思っていると、
「どうも好きなものには自然と手が出るものでね。仕方がない。豚などは手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛って動けない様にして置いて、その鼻の先へ、御馳走(ごちそう)を並べて置くと、動けないものだから、鼻の先が段々延びて来るそうだ。御馳走に届くまでは延びるそうです。どうも一念程恐ろしいものはない」と云って、にやにや笑っている。真面目だか冗談だか、判然と区別しにくい様な話し方である。
「まあ御互に豚でなくって仕合せだ。そう欲しいものの方へ無暗に鼻が延びて行ったら、今頃は汽車にも乗れない位長くなって困るに違ない」
 三四郎吹き出した。けれども相手は《[6]ゾンガイ》静かである。
「実際危険(あぶな)い。レオナルド・ダ・ヴィンチという人は桃の幹に砒石(ひせき)を注射してね、その実へも毒が回るものだろうか、どうだろうかという試験をしたことがある。ところがその桃を食って死んだ人がある。危険い。気を付けないと危険い」と云いながら、散々食い散らした水蜜桃核子やら皮やらを、一纏(ひとまと)めに新聞に包(くる)んで、窓の外へ抛(な)げ出した。
 今度は三四郎も笑う気が起らなかった。レオナルド・ダ・ヴィンチという名を聞いて少しく〔[ア]辟易〕した上に、何だか昨夕(ゆうべ)の女の事を考え出して、【[D]妙に不愉快になった】 から、謹んで黙ってしまった。けれども相手はそんな事に一向気が付かないらしい。やがて、
「東京は何処へ」と聞き出した。
「実は始めてで様子が善く分からんのですが……差し当り国の寄宿舎へでも行こうかと思っています」と云う。
「じゃ熊本はもう……」
「今度卒業したのです」
「はあ、そりゃ」と云ったが御目出たいとも結構だとも付けなかった。ただ「するとこれから大学へ這入るのですね」如何にも平凡であるかの如くに聞いた。
 三四郎は聊(いささ)か物足りなかった。その代り、
「ええ」という二字でアイサツを片付けた。
「科は?」と又聞かれる。
「一部です」
「法科ですか」
「いいえ文科です」
「はあ、そりゃ」とまた云った。三四郎はこのはあ、そりゃを聞くたびに妙になる。向こうが大いに偉いか、大いに人を踏み倒しているか、そうでなければ大学に全く《[7]エンコ》も同情もない男に違ない。然しそのうちの何方(どっち)だか見当が付かないので、この男に対する態度も極めて《[8]フメイリョウ》であった。