粋と野暮の思考感覚(復刻記事9)
●「粋」とは「人間の善悪」をスルーすること●(03/2の復刻) 「いき」という言葉がある。 「粋」と書く。世態・人情に通じていて、ものわかりがよいこと、とある。 「純粋」の意味であり、「粋狂」「粋人」と使う。 遊里・芸人の事情通のことでもある。あくまで「酔狂」「酔人」とはちがう。 「いきの構造」という本があった。ふん?と覗いて見たくはなったが、 結局は買わなかった。 「構造分析」は、いうまでもなく「不粋」である。 ましてや、「構造」を知って、模倣する、という風体においておや。 だから、科学はすべからく「不粋」なのである。 が、「不粋」ないしは「野暮」と知りつつ行なうならば、 「いき」の「域」である。 煙草は、異名で「思案草」「分別草」とも呼ばれたらしい。と、 「おとな」の「仕草」のグッズであり、 「いき」に通ずることなど、JTがせっせと宣伝している。 これを「野暮」という。 宣伝や主張が野暮なのではない。動機が野暮なのである。 それでもなおかつ、宣伝しなければ食うに困る、という動機は、 誰も責めることはできないし、その結果の「世情、歴史の教養」は悪くはない。 煙草には、言われているほどの害はない、と、 最近の「学界?発表」であったそうである。 が、英国の煙草会社からの資金援助がある学者からの報告だ、 とかで、「信用度」に問題があるとか、まともに相手にされていないらしい。 これは、どっちも「野暮」と言える。
後注:「バカの壁」で儲けた養老孟司さんは、「禁煙・嫌煙論・主義者」を「バカ」と位置づけて「バカとの論争」には乗らない状態なのだが、・・つまり、本当に「害」があるというなら、販売禁止と逮捕であるべきことを、そうしない(できない)以上は「論理破綻」である「バカ」の主観嗜好から発した「循環論法」またはマインドコントロール作戦という、「論・学」とは何の関係も無い、てなふつーのことを述べてるので、・・バカってーより「アホの壁」にしたほうが、より正確な事態かもしれない。。
●「野暮」とは「バカ」マジョリティのこと?● 「野暮」とは、 世情に通じていないこと、さばけない、礼儀作法などを知らない、とある。 したがって、煙草のみにも、多く、野暮は存在する。 遊里、歌舞伎者(芸人)、については、 いまや「メジャー文化」であることは言うまでもない。 ということは、「いき」がメジャーとなったのか、?? どうにも、そうは思えないことは、誰の目にもあきらかだ。 なんでだろう? 要は、マジョリティは常に、「野暮」だからである。 マイノリティが常に「粋」だからである。 と、なると、 「粋」とは、かなりのストイシズムが要求される「域」となり、 ところで、煙草はストイックな嗜好品なのであるか、 といえば、実は、そうなのである。 コーヒー、紅茶、お茶、酒などの嗜好品については、 これも野暮な分析の結果、身体への効用は言われている。 が、 煙草は、身体への害のみというか、身体への効用は、 まずないものと考えられる。 これを、吹かす、という行為が、ストイック、だというのは、 いわゆる「苦楽超越」の冷静・平然という本来的意味においてである。 密閉された換気のない同居部屋で煙が蔓延する、 混雑した場所で、火と煙、を漂わす、 これは「野暮」であるから、別段に煙草のせいではない。 が、 密閉度の高い部屋、混雑した場所、それ自体が「野暮」なのだし、 野暮と野暮とが争って、どちらも粋(生き)なくなっているという、 単純な「力関係」にすぎないことである。 ちゅうぶるの、現居留地は、 「自然」には恵まれているほうである。 で、ちゅうぶるの家は自然にあちこちガタがきていて、 自然の虫がうろちょろと、 先日はミッキーの同類がしばらく住み着いていて、 格闘のすえ追い出したが、 「粋」の感覚から言えば、居たってよいのだが、 フンやシヨンベンをあちこち撒き散らすので、 この野暮は、ひとまず追ん出すにかぎる。 というわけで、「思案」のしどころ、としての、 「分別」のしどころ、としての、 「粋」に即して考えれば、 これ芥川さん、「銭の両面」という感じで、 たしかにここに「粋」のポイントがあるわけだから、 「煙草と悪魔」の発想は、もうひとつどんでんがえしがあるべきところ、 一連の切支丹解釈は、たいそう甘かったなーと、 対煙草のみならず、近代マジョリティの野暮にうんざりのこの頃、 もはや流れを「読ま」ないのが、「いき」なのだろうと。