「抵抗勢力」と「独裁」との「力学」(復刻記事10)
●わが経験からの態様●(03/2の復刻) 抵抗勢力、という表現が「流行語」となっている。 ♪やだねったらやだね、やっぱりねそうだろね、が、 子供のあいだで流行したのも、すでに下火のようだが、 抵抗勢力、はまだまだコイズミ政権のもと、根強い「流行語」でもありそうである。 コイズミ方針の是非については、 心情的には、「良くわかる」。 抵抗勢力に対抗するには、ちと「独裁」的方法論が必要である、という面で。 で、抵抗勢力とは、 こう言えば聞こえも良くなるが、 それは、独裁が先に有って、それへのゲリラ戦法としてであり、 どうやら、現在の場合は、「既得権へのあぐら」を守ろうと抵抗する意味なのだから、 実は、こんな立派な名称を与えるべきではない。 私がかつて、某有名アニメプロにいた時の話。 制作スタッフは全て社員だったのだが、 TV局の費用節約方針と新興アニメプロの台頭で、 一秒24コマの「ディズニー流」アニメが不経済という流れになり、 その某有名アニメプロの財政危機となって、 ひとまず「社員スタッフ」を「契約スタッフ」に切り替え、 実力主義にせんと、労使交渉を開始したところ、 ほぼ100%の「社員」が、今のまま、つまり社員扱いがよい、となって、 で、3年後に倒産した。 私は、ある意味で、社長の「独裁」と無能コネ重役の実態を見て、 唯一有能常務と、学歴がないために重役になっていなかった役員室長には引き止められたが、 まずほとんど将来の展望は見えません、役員室長を、学歴なくとも重役にして、 他のコネ重役を解雇しうるならば、続けてみたいとは思いますが、と、 しかし、有名漫画家社長のもと、変に官僚的制度で、無理となって、 引いた。 ・・・ 抵抗勢力、を、実は私も、学生時代に、独裁的に排除したことがある。 ある理念のあるサークルで、その理念に反する理念を言う勢力で、 なおかつ、責任ある立場の選出で、私の対抗馬は居なかったために、 信任投票となったのだが、(本来は無投票だが、私が求めたと記憶する) して、たしか、19対17くらいの僅差で私は「信任」されはしたのだが、 これ、何ジャー?と、 その場の「就任挨拶」で、私は、不信任投票者は、即刻退部してもらいたい旨、 しない場合は、名乗りを挙げて、説明をし、納得しうればいても良い旨、 「演説」した。 当然でしょう。 私が不信任となれば、だれが責任者になるのか、 対抗馬=代案なくして不信任という無責任で、 この組織をどうしょうと、なぜ居るのか。 乗っ取るというだけの自信も決意もなく、 早い話が、「批判のための批判」という非建設的な、あるいは感情論で、 しかし、それで何の「利益」があるのか、 まさに、スポイルドであるから、結果、 少しはわが「指摘」を理解し反省した10人ほどは退部して別組織を作った。 個人的には、その連中のメインスタッフの幾人かを、私は「好き」であった。 が、理念の誤差、と責任意識については譲れない。 して、退部したことによって、彼らの「抵抗」は「創造」へと変化したはずである。 たとえ、それが数ヶ月でぽしゃったとしても、である。 これをもって、「友情」の「ゆぅ」の域ないし粋という。 彼らが感じていたかどうかは知りえないが、 後日「卒業」後、そのうちの一人と会った折、 セイシュンの、その意味は感じていつつも、「生活の現実」が、 ふたたび「我等」を引き離した。かつての、「仲間」ともそのようであった。 問題は、「仲間情緒利益」による「あぐら抵抗勢力」であるようだ。 ・・・ 政治経済の話になると、 何よりも「間抜け」な話にしかならないので、 あまり「好み」ではないのだが、 (とはいっても、私は大学の3年までは、社会科学方面のルートにあったのだが) よくある話で、今回も、 「野党」の内閣不信任案に同調しないところの「抵抗勢力」の、 その理由がふるっている。 「野党の世話にならなくても我々で」と。 このへんから、国会の投票を舐めきっている本性がうかがえる。 不信任案に反対するということは、信任の意志である。 して、本心はコイズミ降ろしなのであるから、 公に信任の意思表示をした事実は嘘だということになる。 「野党の世話に」なりたくなければ、 自分たちが不信任案を出せばよいわけだから、 そうではなく、党内で、総裁選挙において替えるのだ、というならば、 自民党総裁は、別に内閣総理大臣ではないから、 総理大臣として信任した人物を、総裁として替える必要は何となる?。 そもそも「野党の世話」ってなんやねん? 一方で、コイズミサンが、総裁選挙の主張は即「公約」となるので、 自分が総裁選挙に勝てば、全員が従うべきだ、 という趣旨の発言をしたことに、納得がいっていないらしい。 この「抵抗勢力」を、アホなのかいな、と思うのは間違いで、 それぞれ立派な大学を卒業しているのでしょうから、アホではないはず、 と、なると、 単純に「理」の筋道よりも「欲がらみ心情」を優先したがっているということになる。 むろん、 私はコイズミ「支持者」ではないから、 「心情的」にわかる部分が経験上あるとしても、 「イラク支援法案」よりも「日本不況支援法案」を、と。 データによれば、不況原因とみられる自殺が、数千人というわけだから。 ●清い水と濁った水・・● 水清ければ魚住まず、という諺を、私は知ってはいる。 「…大魚住まず」と私は覚えてきたが、それはそれ、 そのあとに続く、人察至れば徒なし、が、 要するにこの諺の「本題」なのである。 出典は孔子の言とされている。 となれば、基本は「仁」という思想になる。 つまりは、 君子は洞察がありすぎると、民衆が恐れて近づかない、 よって、倫理のなかに、「仁」すなわち「土」の包容力を持ち込め、 という趣旨なのであるが、これ、 その時代とその対象にあっては理解が可能である。 古代の天子の祭服の、「帽子」に「すだれ」様の飾りがついているのも、 その趣旨らしい。 中国五行では「仁」は「土性」である。 土は、いわば、キタナイのであるが、 あらゆる植物のもとであり、植物と共生をする虫のふるさとである。 つまりは、自然の原点といえる。 動物のふるさとは水であって、五行では「礼」となる。 これも孔子の実践倫理の基本である。 して、五行では、「土剋水」となって、 仁と礼は相反する性質である。 これを、孔子が唱えた意図は何か、となれば、 どうやら、孔子の意図するところは、「君主政治論」として、 難しいダブルスタンダードの方法論とも思えてくる。 で、現代は「君主」の時代ではない。 政治家は、単なる「代表者」である。どころか、 選挙のたびに地域利益をうたって取引しつつ、「お願い」に回る。 で、つまり、「経済」は、あらゆる矛盾を「解消」する? のではなく、洞察はしても弁別は初めから行なうな、という単純な理屈にすぎない、 ように思われる…。 清さと濁りは、共存すべき自然に他ならない。。