「間抜け」の人間社会学(復刻記事11)
●間抜け論議● も少し「間ぬけ」の話を続ける。 自衛隊は違憲であることは、フツーの法解釈をフツーに論理としてすれば、分かる。 自衛隊が必要か、というと、たぶん今や99.9%は必要だというはず。 じゃー憲法第九条を改定すればよいでしょう。 なんでそれをやらないで、拡大でもない解釈でもない「まぼろし論議」をしているのか。 よく言われることに、自分の家には鍵をかけ、 侵入者には対決する、自衛権ないし正当防衛権=自然権という刑法規定との整合で、 憲法第九条を「解釈」する、ないしは基本的人権を持ち出しても可能と、 さらに、国連憲章にもうたわれている。 しかし、第九条はそれら一切を、日本国と他国とのレベルにおいて認めていない。 個人のレベルの刑法や国内の政策基準としての人権規定があったとしても、 国際法上の常識だとしても、 憲法第九条はその前提が国内的にあるなしにかかわらず、 対国家間においては、丸腰で武器を持たず、襲われても交戦しない、 という「名誉ある地位」をうたっているのである。 ガンジー流の、この方法を、 取るのか取らないのか、今の憲法の規定があるかぎり、 対外国には取るしかないのである。 では、私はというと、侵略されたら?さてどうしよう? 個人のレベルではむろん闘うが、日本国軍の一員として、 ならば、これは徹底的に「回避」を考える。 なぜか、 もともと、アメリカが日本人の、例えばルース・ベネディクトの言う「異様さ」塞ぎに、 第九条を設定した、その見解に、私も異論はないからである。 時代が移って、アメリカは、次第次第に日本に軍備を、 つまり憲法第九条の改定を要求してきたが、 それが日本人「骨抜き」=日本を精神的に「占領」し終えた成果を見たからか、 中国と北朝鮮の共産化への、ドミノ政策として、 アメリカの一員としての位置付けを要求してきたが、 警察保安隊・国境警備隊を自衛隊にすりかえて、憲法改定は行なわないまま…、 私は最もこの日本の「総論・理念」のごまかし体質が性にあわない…。 ●デジタルよりアナロジー、なのだが・・● 智に働けば角が立つ、情に棹差せば流される、 意地を通せば窮屈だ、 と、 「草枕」の漱石枕流に、なるほどと共感して以来、 それでも角立て、棹差さず、意地を通してきてみると、 詩や絵の世界もほぼ一緒、 めぐりめぐって、伯楽の、「愛する者には駄馬の鑑定法を」のエコノミー、 とは言いつつも、これもちょと違う、 「駿馬は数が少なく儲からない」としても、 のダブルスタンダード途中にあり、 にっぽんチャチャチャというなら「間」の美学をこそ、 このプシュケー(てふてふ)無くして「現実(うつつ)」もないところの、 方向へ、というところか。 そう言えば、 ただ今「安住中」のこのちゅうぶる家、 わが父親が破産して家を失ったその年に建ったものであり、 奇妙な「時の間」を感じつつ、 私がアートの世界へ「寄り道」しつつ少々は「活躍」しはじめた、 何がしかの「転機」ではあるかもしれない。 「間」が本来は「門」+「月」であることは既に書いた。 時はお寺の日時計か、といえば、解字上は、寺が之(ゆく)に通じて、 日が移り行くの意である、と説明されている。 それはそれ、私には、時間・空間・人間とそれぞれ「間」がついていて、 「間抜け」という表現が批判の意味としてある、 このアナロジーが、本質の全てと感じられる。 で、先の五行は他に、金・木・火の三要素がある。 言い換えると、義、信、智の要素となる。 これら五行の「仁義礼智信」という性質は、 漢字とともに、5C初頭に日本に伝えられているが、 1C遅れで伝わった仏教の五輪塔として表現されてもいる。 さらにこれら要素間の性質は、「易」に展開し、 例えば西洋占星術の星の配置判断にも通じている。 ユングが、最もすばらしい書とした「易」は時・間の「現象学」とも言える。