「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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わが「プロ著作」歴の(1)-22才の晩秋■小説「罰」

著作が初めてになった日
--まさか小説とは・・(放置HPからの転載+α)
 
それまでに、
小説という形式を、自己表現の手法として考えたことは、一度もない。
童話や少年小説の類は人並み以上には「没頭」したことはあるが、
ないしは、かなり「偏向」した選択で「文学」の類も読んではいたが、
ビジュアルつまり「動画」志向のほうが主だっていた。
 
したがって、世に言う「小説家」の類には、ほとんど興味もなく、
というより、
わが「人生観」は、例の「事実は小説より奇なり」であり続けているので、
「作家」が現実にはどういう「生き方」をしているかが問題なのであって、
たとえ、その作品に入り込んだとしても、
そのことと「作家」への評価とは一致しないのである。
 
言うだけなら、考えるだけなら、それだけのことで、
たとえば漱石や芥川の言うこと考えることと、ないし作品への興・不興の個別距離
は厳然と存在する。
そういう「読み方」をするために、
もうひとつ例えば手塚治虫の漫画には没頭しても、
「社員」としての私はもちろん、一人格としての私においては、
「手塚ファン」とはなりえない。
 
にもかかわらず、なぜ「小説」なるものを書いたのか?
契機としては、「青春の」とでも言えるし、
現実的には、大学生活最後の「遊び」として、
実験的「文学賞」設定に関わっていたところ、
応募数がやや少ないので、
ひとつくらい追加してもあまり意味もないのだが、
 
もひとつ、普段「学生の分際で」エラソーなことを吹聴しているので、と、
試作品をホンマに「適当」に、
大学生活のホンの自己整理のために、
コンナのはドンナもんかぃな・・と軽い気分で、
とある別大学の同人誌に(頼まれたので)書いたその延長で、
 
ただし今度は少々「計算づく」で、
もうひとつの「自己整理」として、
ひとまず2~3週間ほどで書き上げてみた。
むろん、何も「期待」せず、でアル。。
 
ところ、有馬編集長の目にとまった
私は有馬さんの作品は、「赤い天使」と、
映画で「四万人の目撃者」くらいしか知らなかったし、未だにそうだが、
たまたまわが「登場人物設定」がお気に召したのかもしれず、
結果としては、掲載の運びとなり、
 
ついでに有馬さんは、しばらく書生で来ないかと、
生活の心配もしてくれたのだった。
条件はオイシかったけれども、
当然に私は「作家」になるつもりは毛頭ないので、丁重にお断りをした。
 
「事件」が生じたのは、それからまもなくであった。その詳細は書かない。
その結果、有馬さん個人の直接問題というより、
「とりまき連中」の「超下世話問題」が主原因で、
 
ひと悶着ののち、いわば「同僚」の「人権問題」として、
残念ながら有馬さんとは「敵対」する立場となってしまったのだが、
私は今でも有馬さんの「お殿様」ぶりが残念である。
 
個人的には、何の恨みも私はないし、
むしろ「文学」的には「恩人」とも言えるわけだが、
その「文学観」が徹底的に異なった。
 
もう少し近しい関係ならば、
敵対「立場」を取る前に「諫言」したかもしれないのだが、
ただそこまでの距離感ではなかったし、
何より、わが前述の「価値観」が優先する。
 
で、実はこの小説を書きつつ、
ついでに「前後」概念が漂って、「三部作」となっているのだが、
「前」の概念は試作品として、
「後」の概念は、「事件」前に有馬さんが次ぎももってこいというので書き上げた。
 
ところ、ボクはいいと思うが、他の委員の意見も…てことで、
某委員、「前のほうが良かった」と一言「評価」。
 
結局、私はどうでもよいので「アッソーですか」とさっさと引いたのだが、
他の応募者・投稿者のものもろくに読んでないし、
編集会議はいつも雑談とコネ依頼方針なので、
考えてみればこのあたりから「事件」の臭いが漂っていたのかもしれない。
 
ということで、一応は「プロ水準」の位置付けは得た「青春の秋のイタズラ」をここに
(Now後注=ココでは冒頭だけをUP)。
イメージ 1
 
この「後の概念小説」(私はこっちの方が気に入っている)も追って公開する。
 
ちなみに、この「文学」にまつわる「イタズラ」期間の結果、
2人の女性から「とある距離」をとられ
逆に2人からはモーレツアタックを受けた、という、
曰く因縁つきの、秋の夜長の「凄?」春のうち。
 
ついで、「事件」の張本人は、
「お前の小説にはプロットがないなー」。
これは妙に的を得ていた。
 
ただ、このMemories-site理念どおり、この「追憶」は、やはり「現在→未来」の一部分には違いない。
 
Now後注2=このころ、実はあちしの「精神状態」はメッチャクチャ、詳細はマタ整理せむとして、別段に「ピーポーピーポー」とゆー意味ではなく、とある「現実的目標」が理念的に崩壊した中での、「価値觀停止状態」であったと言える。。逆に、だからこそ、「人間学」的には「楽しい混乱」であったかもしれない。・・「衣食住」はまー何とでもナルの「自信」モラトリアム、として、とにかく「ひっくりかえった」のは、誤解を招く言い方をスルと、「男女関係」の「多角化」とゆーことであった。。てより、まさか・うそ・え゛ー・・・の、これじゃーいったい何角カンケーじゃぃ!? とは混乱しつつ、蒙、それぞれにはそれぞれの「興」があり、・・・の「無倫理」事態が始まった、その「価値観リセット」への、見方によっては「楽しき・美しきストレス」だったのかもしれない。。が、「恋・愛・性」の「現実劇場」への誘い、による、「価値観再構成」の「巡り」であったという認識に至る。。