「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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「奇妙なカルテ」を「拾った」ころ-「写真的」青春時代<2>

学生時代に、
「理論的敵対」から分離した学友が

(敵対分離しつつジャン卓は囲んでいたりしたのだが・・いつしか疎遠になっていた。)
5-6年ぶりに電話をよこし、
 
あちしが「物書き業」でもアルことを、
大(笑)新聞の雑誌広告で知ったらしく、
(同一ペンネームは学新でも使っていたため)
いま雑誌社にいるトカで、
稿料は安いけど・・何かエッセイを書け、と。。
で、以下を寄稿した。
 
イメージ 1
 
「写真」という概念が、
「フォトグラフ」という具体性を超えて、
「光と影」と発展途上の「科学物質作用」の仕組みと、
それらをキャッチし使用する人間と、
撮られる対象や人間の「交感・交流」である、となると、
・・・などなどと、
<1>で触れたごとくの「時空間」作用として、
写真機が恰好の「玩具」であったので、

さて、
「写真」は「真を写す」、
ないしは「写ったもの」は「真である」、
・・・とかとか、
上記のエッセイはそのころの「写真遊び」との関連の中での、
「心に写った真」の、軽いフットワークのうちである。。
 
かつての学友は、
原稿を読んで、一瞬、「期待はずれ」の表情をした、
ようにあちしには見えた。。
彼の「知っている」あちしからは想像しえない
 
・・はずである、時が流れていた。。
 
 
だが、
あちしが「変わった」わけではない・・コトはまた後日、

として、
ひとまず、
厄介症患者(笑)」にとっては、
「言葉にならない光と影」という「隙間」が重要であり、
それを醸し出すために「言葉」を、
して「写真」を、
 
異性間にあっても、そのようなころであったのでRRR。