「現実」を捨て始めた25歳の夏の著作・・
■小説?「時間の森」探訪 「なぜ<欲望>なのか」
-夢みる存在「デッサン・ド・ダーザイン氏との会話」(前後篇)■
-夢みる存在「デッサン・ド・ダーザイン氏との会話」(前後篇)■
・・・・・
なぜ<表現>、なぜ<美・術>、と、
わが評論デヴューの選者であった宮川淳氏のいわゆる
「概念変換運動」をおこない、
わが論を強く押してくれた同じく針生一郎氏のいわゆる
「(うまくはいっていないが見るべき?)サルトル批判の視点の方向」を、
わが評論デヴューの選者であった宮川淳氏のいわゆる
「概念変換運動」をおこない、
わが論を強く押してくれた同じく針生一郎氏のいわゆる
「(うまくはいっていないが見るべき?)サルトル批判の視点の方向」を、
もういちど、
私のいわゆる「営業的建前評論」の外装をとっぱらって、
「ふるい」にかけてみたのがこの論考である。
私のいわゆる「営業的建前評論」の外装をとっぱらって、
「ふるい」にかけてみたのがこの論考である。
私はとくに、「サルトル批判」を主題としているわけではなく、
「ハイデッガー批判」も同様、これまたいわゆる「実存主義」とか「マルクス主義」、などなどの、
俗に言う「思想や主義」についてはもともと興味がない。
「ハイデッガー批判」も同様、これまたいわゆる「実存主義」とか「マルクス主義」、などなどの、
俗に言う「思想や主義」についてはもともと興味がない。
思想や哲学、という言葉は、例のconceptとかidentityとかと同様、
いまや日常次元の、たとえば商業戦略においてすら、
家族間や親子間の心理問題としてでも使用されるごとく、
単純には、「象牙の塔」での鹿爪らしい議論のための議論水準でもなければ、
赤組対白組に分かれて争う「運動会」水準のものでもない。
いまや日常次元の、たとえば商業戦略においてすら、
家族間や親子間の心理問題としてでも使用されるごとく、
単純には、「象牙の塔」での鹿爪らしい議論のための議論水準でもなければ、
赤組対白組に分かれて争う「運動会」水準のものでもない。
とある歴史的(時間的)な、地域的(空間的)な「生存欲的利害関係」が、
思想や哲学を形成する、のではなく、
歴史というなら「人類史」と「地球史」、
地域というなら「宇宙空間」、
して、人間というなら「超心理」ないし「魂」の領域、
でなければ、ほとんど一切は「欲望経済学」と「弱肉強食」にかえされる。
思想や哲学を形成する、のではなく、
歴史というなら「人類史」と「地球史」、
地域というなら「宇宙空間」、
して、人間というなら「超心理」ないし「魂」の領域、
でなければ、ほとんど一切は「欲望経済学」と「弱肉強食」にかえされる。
というわけであるから、この当時の私は、
Memories-siteを総合してご覧になれば一目瞭然のように(後注-今は放置)、
徹底的な「時空間」透視の「存在」探索というポジションを模索しはじめていたのである。
Memories-siteを総合してご覧になれば一目瞭然のように(後注-今は放置)、
徹底的な「時空間」透視の「存在」探索というポジションを模索しはじめていたのである。
そこで、「小」「説」と分解して、「夢」みる「現実」
すなわち、
「Dessin」「Dasein」という、
「美学的」仏・独語を接着しつつ、
ソクラテス-プラトンの会話式を導入して、
前後を「幻想」「小説」スタイルで、
テーマは「時間」的不可解の存在原理たる「欲望」とあいなった。
すなわち、
「Dessin」「Dasein」という、
「美学的」仏・独語を接着しつつ、
ソクラテス-プラトンの会話式を導入して、
前後を「幻想」「小説」スタイルで、
テーマは「時間」的不可解の存在原理たる「欲望」とあいなった。
この「時空」的延長が「アート」の位置であり、
「存在」の位置であるはずなのだが、
「存在」の位置であるはずなのだが、
・・・
この時点で、
単に現実に即した「評論家」として適当にこなしていけば、
むろん「謙虚(ぶり)という卑屈」を前提に、
ついでに「政治力・営業力」を発揮しつつ、
「石の上にも三年・・」を2-3クール実行すれば、
いっぱしのポジションを固め得るだろうことくらいは、
それまでの経過・経験からは十分に理解してはいた。。
この時点で、
単に現実に即した「評論家」として適当にこなしていけば、
むろん「謙虚(ぶり)という卑屈」を前提に、
ついでに「政治力・営業力」を発揮しつつ、
「石の上にも三年・・」を2-3クール実行すれば、
いっぱしのポジションを固め得るだろうことくらいは、
それまでの経過・経験からは十分に理解してはいた。。
が、
本をただせば、私は「物書き業」などは体質に合わないし、
にもかかわらず、あれこれ認めて書き散らかして来つつ、
継続的に書き散らかしているのは、
書くことの自己目的化ではなく、
むしろ「行なうこと」の設計図ノート・メモとして、
思考経路の整理整頓としての位置づけであるから、
ある程度まとまれば発表しつつ「客観」性に付すだけのことで、
にもかかわらず、あれこれ認めて書き散らかして来つつ、
継続的に書き散らかしているのは、
書くことの自己目的化ではなく、
むしろ「行なうこと」の設計図ノート・メモとして、
思考経路の整理整頓としての位置づけであるから、
ある程度まとまれば発表しつつ「客観」性に付すだけのことで、
いわば、
未だ見ぬ知らぬ「相手」へのアピール、
ないし「ラヴ・レター」と言い得るかもしれない。。
未だ見ぬ知らぬ「相手」へのアピール、
ないし「ラヴ・レター」と言い得るかもしれない。。
そこで、
に、しても25歳の、「前途洋々」期、
人は、私が何でわざわざ「反れる」かと、
人は、私が何でわざわざ「反れる」かと、
もちろん、
この原稿を掲載した編集者の判断も含めて、
この原稿を掲載した編集者の判断も含めて、
実は、
「まとも」な「孤立」少数「真実」への「回帰」、
それを「質」としてトライし始めただけのこと。
「まとも」な「孤立」少数「真実」への「回帰」、
それを「質」としてトライし始めただけのこと。
25-6歳程度の時期の不十分はアルとしても、
芥川も認めたある「異色作家」に、
「時間論」への認識の必要を再考させたらしいので、
芥川も認めたある「異色作家」に、
「時間論」への認識の必要を再考させたらしいので、
ま、
ウソで固めて生きるより、
少なくともホントに則してあるところまである、
ウソで固めて生きるより、
少なくともホントに則してあるところまである、
結果、
一応は今まで「生き」てきておりまんので、
一応は今まで「生き」てきておりまんので、
・・・
また後日。。
また後日。。