「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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竜馬暗殺傍観?-西郷さんの数奇(2)

私の結論から言えば、
西郷さんの性質は、
そこに「一所懸命」の人間を見て、
それを評価する。
敵味方の短期的状況を見ず、
率直かつ果敢を見て、
常に大局を考える。

山形庄内藩での人気は、
その一つの例であった。
上野彰義隊への討伐躊躇もそうであろう。

して、
ただ、竜馬暗殺に関しては、
不可解な行動をとっている。

このあたりは以下のサイトが詳しいので、
リンクしておく。
御陵衛士伊東甲子太郎説=薩摩藩大久保利通説を調べる」
http://www15.ocn.ne.jp/~ryomadna/assassination/assassination_goryoueji.htm
(「竜馬の遺伝子」さんのうち
http://www15.ocn.ne.jp/~ryomadna/assassination/index.htm)

大政奉還の「平和解決」を求める竜馬に対し、
西郷隆盛は「倒幕」を主張しており、
事実、「徳川慶喜の策略」によって、
大政奉還」は朝廷の困惑するところとなり、
結果的には、竜馬の予測は外れた。

しかし、
その後、鳥羽伏見の戦いを経て、
またまた最終的には、
勝海舟との協議によって「無血開城」となったわけだから、
やはり結果的には竜馬の主張どおりになったことになる。

そこで、
五稜郭を落としたあと、
西郷隆盛は新政府を辞して故郷へ帰った行動が、
またしても不可解である。

西郷さんのこののちなど詳細は、
西郷隆盛のホームページ「敬天愛人が詳しい。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/

私がここで考えたいのは、
西郷隆盛が、なぜ「竜馬暗殺を傍観したか」である。

竜馬の案には、
土佐藩の新政府への参入と、
何より徳川の温存参入があったといわれている。

ここが、たぶん決定的な理由と考えられる。

その、竜馬の考えの背景に、
例の「亀山社中」による「商売感覚」があり、
さらに、徳川温存では長州が100%納得しない、

ここに、
「義」よりも「利」を目論むかのような姿勢を、
西郷は竜馬に見た、
と考えられる。

さて、
西郷さんがその後、
私学校を作った場所は、
鶴丸城の中、

亀が先に、そして鶴があとで、
夜明けの晩に、
「滑った」のだとしたら、

「籠のなかの」「鳥」は、
いついつ出やる?いや、出ない。ともなる。

ところで、「鳥」は、
「十理」でもあって、
「トート・アンク・アーメン」すなわち、
ツタンカーメンとも関係のあるシンボルなのだと、

♪だぁれも知らないここだけの、は・な・し。(お星様ひとつ、、の歌より)

(つづく、予定)