五輪塔続き「仁義双六論」-この現代に「秘書奴隷化」のSM性事屋は市中引き回し・・
・・ともあれ「民主」とも「自由民主」とも、
ほかほかとも何の関係もねー穴黒性事でRコトは間違い寝ー。。
「性事屋の秘書」になりたがる動機は、
その先の目論見があってのこと駄漏から、
相互利益で勝手にSMやってりゃえーが、
真の忠誠心は「諫言」を厭わず、
真の尊敬は「奴隷状態」からは生じない。
ヒトは、
忠誠・奴隷状態を凌ぎつつ、
コバンザメ的「面従腹背」を育てつつ、
確かにそーゆー方法によって「出世」を狙った輩は、
ま、今般の哀れな結末でしかないでせう。。
たとえば「宇宙真理」の五輪塔の、
上から順番に、
「仁(土性)」もなく「義(金性)」もない、
すなわち「慈悲・慈愛」も「精神鍛錬・潔さ」もない、
そんな輩に支配権を持たせてはならない、
この「天地」概念の優先サンドイッチに基いてこそ、
「礼(水性)」「智(火性)」「信(木性)」の機能が存在する。。
「天地」の狭間にある「人」関係となる。
それらの相関的巡りとしては、
大地が天空を生じ、
天空は水を生じ、
水は草木を生じ、
草木は火を生じ、
火は大地を生じ・・・
ベースに「個ではない複数としての慈しみ」があり、
それがこそ「大義」につながり、
それへの「礼儀」が雨を呼び川・池・湖となり、
草木が憩いを生み、
その草木の存在から智恵を育て、
その智恵は「複数の慈しみ」へ戻る・・・、
ま、結局は孔子の「仁」ベースを受けつつ、
孟子はそこへ「人為の空性」を強調したことになるのだが、
現実政治とニンゲンの利欲を前に、
不十分な「理論信仰」に陥った事情を鑑みると、
孔子が「仁+礼」の相克を強調したのに比べ、
孟子の「仁+義」の相性の強調の方が、
まだしも自然に適っていたとも言える。
「仁義なき」「奴隷化礼」の現実とは、
「信」も生じさせず、
当然のことながら「智」も生じない、
疑念渦巻き、裏切り背信、
デジタル知育の知ったかぶりに、
学歴・閨閥偏重、有名無実、
民主も自由も近代も、
金権主義の大鷺小詐欺、
市中を引き回したところで全体は変わりもしないが、
「仁義」を「革命=天命」のきっかけと認識した孟子は、
(例の「孟母三遷」は逸話として有名だが、
最後には、「おっかさん また越すのかと 孟子言い」
と川柳にあるように、)
母元を(鬱陶しがって?)離れて成長したらしいから、
その意味で正しいとは言える。
孔孟のいずれも、
「妻」すなわち「基本ペアリング=仁」の、
(有る無し又はバリエーションの)「天命」に気づいたかどーか、
全てはココがベースらしーのでRRR。。
・・・(後略)・・・
とまれ適宜マタ続く。
付録は以下の三曲。。
どーゆー繋がりか、
論述課題でもありんす。?(。。; )メモメモ。
どーゆー繋がりか、
論述課題でもありんす。?(。。; )メモメモ。