「黄色潜水艦」遊びジャーナル(仮元祖1)

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家を所有する、という居心地の「間」(復刻記事12)

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●感慨というより経過的「間」感覚●(03/3の復刻)

be in time ないしは be in harmony
というのが、たぶん、「ま」の英語訳としては近いように思える。
ないしは inteval でもよいかもしれない。
ま、何にせよ、何の時、何の調和、して、何の合間??
たぶん、「人間的」関連からの、浮き、ないしは、孤独・・。

先の芥川さんの、「孤独地獄」については、
私が青年期に、ちよっとした関心があって、
むろん私は孤独ではあったが「地獄」ではなかったので、
ふーーーーーふん??と、
このへんで、芥川さんの「知的限界」を感じつつ、

しかしながら、
情に棹差す、てゆーか、あーでもないこーでもない、ぐちゃぐちゃの「日本風土」には、
うんざりしていたので、それでも、なるほど、情に距離をとる芥川流批判精神には、
それなりの「清涼感」は感じていたから、ストックはしていた。

で、あるとき、
ある有名女優の旦那である(こういう言い方は変だが「分かりやすく」程度の意味)
ある有名映画監督から、
「・・監督作品一挙上映」シリーズ企画の交渉をしに行ったおりに、
あれこれ「酒飲み話」をしている中で、
わが「バカ友」が、「コイツ(私)が今芥川に凝っている・・」とかの話を振ったところ、

「芥川など読むと身を滅ぼすよ」と言われ、
ちょっとしたセイシュンの好奇心とも説明をせず、
たしかに、芥川さんに同化すると、でしょうが、
これはビミョウな監督認識になるなー、と、
「心中もの」を撮った人でしょうに、と、
このへんでひとつ、形而上と形而下のダブルスタンダードは覚えた記憶がある。

ところで、奥方の女優さんは、現在まで一線を維持するとは、
当時の私は思っていなかったのだが、
そのときのナマの印象が、スターというより大変質素で「かわゆかった」ので、
「虚像」より、「実像」を生かせばよいのに、と、ふと思ったりもした。

●虚虚実実の「間」●

当然に、「芸」は虚実皮膜の間にあり、という「理論」からは、
亭主デアル監督さんの「妻デアル女優さん観」
(実はオモシローイ発言があって、若き私は妙に感動したのだが、
プライバシーに触れるので、公開はできないのが残念)
とともに、「芸」そのものが、あるいは単純に「人生劇場」の域と心得れば、
虚虚実実、♪時にはショーフのよーに、
ミダラになーりな、であるかどうかは置いといて…、
世界認識というものが、当然にパリティ=虚実ワンセットに基づく以上、
あの手この手の手練手管、いずれも捕まえ難い「事実」ではある。

例えば漱石が「三四郎」のなかで、
女性ってのは詩人だ、と野々宮さんに言わせ、
例の広田先生に、男はなりきれないと言わせている。

そうかもしれない、と、
私はこのごろになって、感じることが多い。

どういう種類・レベルの「詩人」であるかは色々として、
女はそれ自体が「芸」をしている存在だとすれば、
これ、「男尊女卑」は徹底的にアカンで、と、
しかし「女尊男卑」でもありえない、
宇宙のパリティ(陰陽バランス)とは、結局は「中性」か、
そーすると、Gay=「芸」の音合わせが真実味を帯びてくる。

But never the less,
その虚実が実のための虚実になってしまった時に、
虚実は必然的に崩壊する。

虚実のための虚実でなくては、「詩」も「芸」も出現しない。

●さしあたり、の現実●

実は、「実」などというものはない、
「虚」の「仮定形」であり、
「虚」が「実」のような姿をとるのだ、
という「優先度」については、プラトンでも仏教でもよいが、
いずれにせよ、科学的に述べたとしても、
三次元を「実」とするところからは理解できない。

現象学、という方法論が、
虚実の事実については素直なアプローチの仕方であり、
しかしながら、「学」という方法が、
認識および具体実証という理知だけに偏向した時に、
すでにパリティは崩壊し、
詩も芸も、マテリアルと化す。
ここにおいては、実は、フォーマルの認識でよいのであって、
さて、
be in timeないしはharmonyという
「for the time being(さしあたり)」の感覚でよいことになる。

と、
ここまで書いてしばらく詰まっていたところ、
かつての「教え子」が、「ミス・・」という賞を受けたと、
実は、伊良部の去就をサイトで見ていたなかで、分かった。

なんの関係か、と言えば、ひょっとしたら「金色夜叉」かいなと、
と言っても、私は紅葉の「宮さん」を否定はしないし、
もちろん、環境的には「貫一」をこそ支持するのだが、
これ、
やっぱり「ポエム」ではなかろうか、

高校生を十年ほど扱ってきた経過をふまえて、ふと、
ひとつ、詩情あるセイシュン映画を、創ってみたい、見てみたい、
と、ポストモダンの、近代反省ではない否定に思いを馳せてみたりもするのである。

虚実が、入り混じり、というよりも、
漱石スタイルで言えば、存在それ自体が「詩的」でありうる「女性」が、
例えば「学問」を行なうにあたって、
むろんのこと、「論理性」はつかまえうるとして、
根本義は、それよりも「虚」の詩性でありうべし、
そこへ、「男性」が、女性に「論理」で絡むのではなく、
「実」の背景としての「詩性」をこそキャッチすべし、

と、
今や、あるいは遥かかつてから、「歴史は夜作られる」の、神秘を、
さて、「実世界」の中へ、どう「戻す」か、
「金色夜叉」の後半の「混乱」は、紅葉の、たぶん混乱である、
というよりも、明治近代の、大混乱であっただろう。

その意味では、弟子の泉鏡花の「湯島の白梅」的「真実」を、
紅葉が「作家を実としてとらえる」見解から戒めた?というエピソードは、
あきらかに紅葉の「間違い」でありつつ、も、
現代ならともかく、三文文士の明治では、あるいは「正解」とも言える。

私が伊良部の去就に少し興味を持った理由については、
150キロの速球の魅力と、非日本的性格のひずみへの興味だが、
ともあれ今や、通常新聞よりもスポーツ新聞のほうが面白く、
人間模様がよく現れている、というところで、
たまたま「ミス・・」という項目があったので、
ついでにクリックしたところ、
そのサイトへ行き着いて、
なんだか妙に、わが「芸能の血」が、ほんわか「実」を帯びてきたのである。

というのは、
わが「芸能」の血の実性というものが、
わが育ち(および性格形成)の中で、実は、最重要の要素としてあるからである。

後注1:・・・なぜ今、この地のココを所有し、
そしていつまでこの居留が続くのか、
ただひとまずは、
「最小限度の経済」をキープし得る限り、
他者を気にすることなく自己自身の意を生活場として展開しうる、
その「時空間」を得た中での、
「落ち着きつつ、落ち着かない心模様の過去整理」として、
「つぶやき」が続く、・・・。

後注2:女優・監督名、「ミス・・」は伏せる必要も特にないのではアルが、あちしが個人的な視点であちし自身の展開をしている中でのエピソードなので、あえて。。「場」がメジャーでの展開であれば、「よそ行き」的に「論」としてオープンで述べうる面白い内容ではあるが、この、無名の(笑)私の個人的な場では、隠すのが「礼儀」としておく。。


冒頭写真は、オヤジがやはり初めて家を所有した時に、北新地かどっかの飲み屋で貰ってきた、ずーと応接間に掛けていた温度計つき鏡でアル。。その家を手放さざるを得なくなったトキに、あちしが気に入ってたので確保しておいた、あるいは「不吉な」ものかもシレナイ、とも思ったが、今んトコロ現居留地を七年キープしてるので、何より、コレが掛かっていた応接間の二件の思い出が大事なものなので、「ジンクス」を無視して掛けたのでRRR。。